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周りが羨ましくて仕方なかった。地獄の劣等感を乗り越えた女の幸せ論

「他人が羨ましい」と言う感情は、生きている限り続くものだと思っていた。

あの人は容姿が整っている。お金を持っている。友人に恵まれている。

だから自分よりもずっと幸せなはず。

でも人生ってそんな簡単なもんじゃないんだよと

最近思うのです。三十路を目前にして気づきを得た。

人を羨むことに疲れているなら、自分が惨めに感じられるのなら、とっととふっきって楽に生きようやって話をします。

人が羨ましすぎて死ぬかと思った

 

私の20代はこの一言に尽きる。他人への羨ましさで窒息するかと思った。

ここでいう他人というのは、主に同年代の女性たちのこと。

お金とか、ブランドバッグとか、イケメンの彼氏とか、働きやすい職場とか、ファッションセンスとか、コミュニケーション能力とか。

みんな色々持ってるんだもん。で、私はひとつも持ってなかった。

というのも、それまでの私はそういう類のものに何ひとつ興味がなかったから。

給与はごく一般的。人によっては足りないと感じる額だっただろう。でも、特に困ったことはなかった。

男性と会ってデートをするより、家にこもって酒を飲みながら漫画読んだりゲームしてる方が楽しかった。

公私ともに充実したキラキラ生活を送りたい! なんて考えたこともなくて、仕事はあくまでも生活のためのもので、とにかく一人で過ごす時間を大事にしたかった。

で、周りにもそういう友達が多かった。

流行り物に飛びつき、彼氏やブランドものを使って自分の価値を高めようとするいわゆるミーハーな女子のことを、バカにしていた節もあったと思う。

それなのに、東京に出てきて交友関係が変わっただけで、私の価値観はあっさりと変わってしまった。

かつて自分が「あの子たち空っぽだな」と思っていた女子と同じになり、あまつさえその空虚さを羨ましく感じ始めたのが地獄の始まりだった。

原因は比較対象が増えたこと

 

他人を羨ましいと感じ始めた一番の原因は、身近に比較の対象が増えたことだった。

今まで関わりのなかった女子たちを自分の友人として認識し、彼女たちからも認識されたことで、なんというか、いよいよ見ないフリができなくなった。

とはいえそうなったのには、自分自身心のどこかで「彼女たちのようになりたい」と言う気持ちがあったせいかもしれない。

全く興味がないのなら、環境の変化に関係なく、家で酒を飲みながら漫画を読んでいる自分を愛したままでいられたはずだから。

「持っている」彼女たちと話していると、嫌でも自分の「持ってなさ」を痛感する。

女子会でみんなが何かしらの持ちネタを披露してくれるたびに、自分の経験値の少なさを思い知った。

彼女たちが素敵な男性とお高いレストランで食事をしていたころ、自分は家でビール飲んでネット見て笑っていたわけで、披露できるキラキラネタなんかひとつもないわけ。

そういうのを笑って話せるだけの器量は、20代前半の私にはなかった。ただただ周りを羨ましいと感じてしまった。

一言で言うと若かった。

SNSで試されるドM魂

 

現代のコミュニケーションとSNSはかなり密接な関係にある。このSNSが異様なまでに羨ましさを加速させる。

友達と対面で会って話すだけなら、得られる情報の量はタカが知れている。

だけど、SNSで得られる情報量はものすごく多い。

さらにわざわざ不幸な投稿をする人は少ない。他人の幸せな投稿を、自分の意思や都合に関係なく見せつけられることになる。

冷静に考えてものすごいストレスなんだけどなぜか見てしまうのでSNSは怖い。

女子会が楽しくて幸せだとか、彼氏と旅行に行って幸せだとか、お高いレストランに連れて行ってもらえて幸せだとか、プレゼントをもらって幸せだとか。

いいねを押してみるものの、心の中では色々うずまいているわけです。

これが幸せなら、自分の今のこの状況はなんなのよと。

ひとりで酒飲んで本とか映画見て泣いたりしてるのって個人的には最高に楽しいけどこれってもしかして人から見ると不幸なのか? と。

それまで信じていた自分の幸せの概念がグラグラになる瞬間。

ゼロか100かみたいな限界人間は、ここで「自分も羨ましがられる側になったら『完璧に』幸せになれんのかな、いっちょやったろ」と一念発起して痛い目を見るわけですが、それはまた別の話。

幸せになりたきゃまずSNS消せ

 

幸せになりたい人はマジでSNSを見ない方がいい。消そう。

SNS自体は悪じゃないけど、過去の私のように精神状態がグラグラしてる人が見るともれなく病むと思う。

現代は良くも悪くも他人の生活が見えすぎる。

SNSもそうだけど、動画投稿サイトも真面目に見過ぎない方が良い。あくまでも娯楽のひとつとして楽しめる器用さがないとしんどくなると思う。

モーニング・ナイトルーティーンとか、休日の過ごし方とか、ていねいな暮らしとか。

見てる分には楽しいし、ああいう生活に憧れてる人もいるかもしれないけど、あれをリアルだと捉えると詰む。

編集された数十分の映像をすべてだと思い込んではいけない。あれって連続するインスタみたいなもんで、見せたい部分だけを切って貼ったものなので。

誰にだって部屋がクソきたない日はあるだろうし嫌なことがあってクッションを殴る日やジャンクフード食べる日や酒飲んで行き倒れたように床に寝る日だってある。そう信じたい。

そもそも全くの他人である、しかも一般人の生活を見るために時間を割くのって、すごい斬新だと思うんですよね。

動画とかSNSって最強の暇つぶしツールって言うけどほんとにそのとおりで。

周りと比較して落ち込んでしまう人は一旦SNSから離れてみてほしい。もしくは知人がひとりもいないアカウントを作り直すとか。

よく眠れるようになります。

自分の人生に集中できるようになります。

不要な交友関係を断ち切ることができます。

我々は人間なので、思考する生き物なので、思考停止が目的の暇つぶしツールに人生を支配されるのは避けたい。

死ぬときに持っていけるもの

 

幸せは自分の中にしかない

ってよく言うけど、すごいぼやっとしてるし綺麗事でしかないと思っていた。でもこれが真理。

「もし〇〇だったら幸せになれる」って考え方の人、多いと思います。私もずっとそうだった。

例えばブランドものをたくさん持っていたらとか、もっと美人だったらとか、お金持ちと結婚できたらとか。

でもそういう条件つきの幸せは、その条件が失われたら一瞬で消える。

さらに、人は欲しいものが手に入るとすぐに慣れてしまう。

欲しいものが手に入って嬉しいと感じるのは一瞬で、それが日常になってしまえば、今度はもっといいものが欲しくなる。

上には上がいるし、人の欲望にはキリがない。

私だって1000000000億円欲しいし北川景子みたいな顔面になりたいし24時間酒を飲んでも元気でいられる肝臓が欲しい。

でもこれが叶わないからといって別に不幸だとは思ってない。それなりに人生楽しいなと思ってる。

結局、現時点で幸せを感じられている人は、どんな状況になっても幸せでいられるんだと思う。

幸せの基準は、どうやら「持ってるか」「持ってないか」ではないらしい。

死ぬ間際に「あれさえ手に入っていればもっと幸せだったのに」とか思いたくない。「まあ結構楽しかったな」と思って死にたい。

そのために必要なのって、本当にモノや金なんだろうか。死ぬときに持っていけるのは思い出だけだって、かの有名なジョブズさんも言ってましたね。

誰かと比較した幸せは意味がない

 

「羨ましがられること」で幸せを実感できる人もいる。

価値観は人それぞれなので否定はしない。

でもこれ、人から羨ましがられなくなったときのことを考えるとめちゃくちゃ怖い。

自分を羨ましがる不特定多数の人たち。赤の他人に対してマウントをとったところで、得られるものはといえば一瞬の優越感くらいだろうか。

それが何になるかっていうとマジで何にもならないんですよね。

自分自身に価値を見出していれば、他人から羨ましがられなくとも堂々と立っていられる。

優越感なんて不確かなものよりも、自分の存在だけに主軸を据えた方が、ずっと快適に生きられる。

誰でも今すぐに幸せになれる

 

宗教みたいな見出しになってしまってウケる、採用

「誰かの幸せ」を目にすると、どうしたって自分の人生と比べてしまう。

さらに「人からどう見られるか」に固執していると、自分の幸せが揺らぐ。

ここで改めて自分の幸せについて考えたい。

スペックの高い彼氏を捕まえたら幸せなのか。

SNS映えする生活は本当に自分の理想なのか。

モデル並みの容姿を手に入れることが人生なのか。

幸せの形はさまざまで、テンプレ化なんてできない。

一人で過ごすこと、好きなだけ本を読むこと、健康に暮らすこと、おいしいご飯を食べること、犬や猫をなでることが幸せだと思うのなら、もう他の人の言う幸せなんて考えなくていい。

本人が幸せだって思ってるなら、それはもう紛れもなく幸せなので。他の人が「欲がないね」「そんなんでいいの?」とか言ってきても「うるせえよ」でいい。

なんで他人であるお前の幸せを私が踏襲しなきゃなんねえんだよって話です。

全くベクトルが違うはずの幸せを、他人と足並み合わせよう、競い合おうとすると、そこに不幸が生まれる。これは身をもって経験した。

人生は自分だけのもので、他人は自分の人生を構築する一つの要素にすぎない。これは赤の他人だけでなく、家族、友人、恋人に関しても同じ。

そんな他人に勝手に期待し、惑わされ、自分を惨めに感じることは、人生の損失だと思う。

この世で強いのは、大金を持っている人でも地位が高い人でも容姿が整っている人でもない。

死ぬときに「幸せだった」と思える人が一番強い。

とはいえ、人間はいつ死ぬかわからない。「幸せだった」と感じられるだけのたった1秒の余裕もなく、いきなり死んでしまう可能性もゼロではない。

それならこうして生きてるうちに、少しでも「幸せだな」と思える時間を増やしたいと思う。

人を羨んでる暇があったら、自分の楽しいことを追求したい。それは他人の心の中やSNSの中にはなくて、自分の中にこそ見つかるものだと思う。

こう思えるようになるにはだいぶ時間がかかったし、今後も何かあるたびに揺らぎながら生きて行くんだろうけどこれも人生。

仕事というかほぼ趣味の文章を綴り、これからキンキンに冷えたビールを飲む私。まあ結構幸せだなと思います。人と比べない人生は楽しいよって話でした。